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  • 執筆者の写真kachirou kano

discussion_20230310

オタク衰退論から考える東方原作

~「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」を許せますか?~



目次

0.序文

1.「東方」というコンテンツの性質

2.東方ファンコミュニティにおける原作履修問題

 「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」騒動

3.岡田斗司夫氏によるオタク衰退論

 「オタク・イズ・デッド」でのオタク分類

4.原作履修問題とオタク分類の関係

5.東方ファンはどう在るべきか


0.序文

 仕事が忙しいので、最近ゲームができません。しかしそういう時に限って、「時間が有ったらこれをやりたいな」というアイデアがふつふつと湧いてくるものです。最近は東方とオタクについて文章を書きたいと、しばらく考えていました。結局仕事は忙しいままだったので、仕事をさぼって書きました。お暇なときに読んでください。下記で引用した講演の内容に関する狩野の考察は、実はちょっとずれているのですが、ご容赦くださいますと幸いです。


1.「東方」というコンテンツの性質

 東方という単語は、一般的に東の方角や欧州から見て東側にある国(アジア諸国)を指す。本稿での「東方」は、東方project(1)を指すものとする。東方projectとは個人サークル「上海アリス幻樂団」によって制作された、シューティングゲーム(STG)を中心とするコンテンツ群である。東方が単なるインディーゲームシリーズに留まらないのは、1996年以来続く長い歴史や、格闘ゲーム・書籍・音楽CDと多岐にわたる作品範囲という特長を持つからだ。コンテンツの制作スピードは驚異的であり、2010年には「最も多くの同人STGを制作したクリエーター」としてギネス記録(2)に認定されたほどである。作品の内容を見ると、ストーリーやキャラクターの中には他の漫画やゲーム作品に元ネタを持つもの(いわゆるオマージュ)や、実在したと思われる歴史人物を擬人化したものがある。有名な作品や歴史上のストーリーに着想を得て作品を作るのはよくある話だが、東方の場合は和洋あるいは古今様々な元ネタを持つ要素が入り混じるのが特徴的である。東方の舞台(幻想郷)には自然豊かな森林地帯が存在し、四季がみられることから日本に近い風土を連想させる。

私たちが東方に触れるとき、その入り口が非常に多いことに驚かされる。現実世界では「長期間のシリーズ維持」「多種類のメディアでの展開」によって、世代やメディアを問わず多くの人々がリアルタイムに作られる東方に触れることができる。また作品世界でも幻想郷の場所・年代がはっきりしないことから、ある程度自由に解釈できる余地があり、どういう方向の趣味を持った人でも接点を持つことができる世界観なのである。東方の入り口の多さ・緩さと、原作者であるZUNの寛容さ、加えて家庭用インターネット通信の普及が重なり、東方の二次創作は2000年代前半に大きな広がりを見せた。匿名掲示板でのチャット文化をはじめとして、動画サイトでの音MAD(リズムに合わせて映像や音を合わせる編集)、同人誌即売会での二次創作コンテンツ制作により、東方のキャラクターや音楽は極めて広い範囲で知名度を獲得した。いまYouTube上に多数存在する「ゆっくり」系動画に現れる生首のキャラクターは、東方ファンを煽るために匿名掲示板上で使われたAA(簡単な記号で絵を表す文化 (゚Д゚)こういうやつ)が元になっている。東方ファンへの煽りとして用いられた記号すら、東方projectの宣伝役となり、東方を広め続けた。

 東方の核には一次創作である「東方原作」が存在する。東方原作に明確な定義は無いが、基本的にはZUNが直接制作した作品のことで、STG作品は勿論これに含まれる。ZUNが他のクリエーターと共同で制作した格闘ゲームやコミックなども原作に含まれると考えられるが、「公認」と称するソーシャルゲーム類や多数の二次創作群は原作の範疇にないと考えられる。これらの区別に明確な基準はない。さて数多の入口を通じて東方に触れた人々の中に、先々まで東方原作に触れる機会が無い人々が少なからず居る。例えばソシャゲで東方を知ったけれど、そこに出てくるキャラクターがどの原作で登場したのかは知らない場合。例えば二次創作のアレンジBGMで東方を知ったけれど、出典元の作品や原曲は見聞きしない場合。彼らは明確に東方ファンなのだが、しかし東方原作をよく知らないのである。東方の特徴は前述の通りだが、もう一つ現実世界での特徴を挙げるなら「二次創作が一次創作に比べ膨大であり、一次創作から独立して存在しうる」ことだ。独立した二次創作の中で東方を楽しむファンと、一次創作である東方原作の中で東方を楽しむファンの関心事は殆ど共通しないのであり、相互に理解可能な用語は「ZUN」「幻想郷」といった基本用語や「霊夢」「魔理沙」等の主要キャラクターの名前くらいである。そのように多種多様なファンが互いに連帯せず、並行して多数存在することが東方の性質である。


2.東方ファンコミュニティにおける原作履修問題

 「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」騒動

 東方原作を楽しむファンから見て、原作を知らないファンが新たに原作に触れるのは喜ばしいことであり、歓迎すべきことである。いまだ原作を知らないというのは、その分伸びしろがあるということである。しかし過去に熱が高まって先鋭化した東方原作ファンの中に、原作の知識・経験でマウントを取ろうとする者がみられた。上手な者が下手な者をいじめるパターンもあれば、上手下手によらず原作を知る者が知らない者をいじめるパターンもあった。そのようなファン同士の、特に古株のファンが関与する騒動は、ファンコミュニティの対外的な印象を悪化させる要因になる。

 2005年に東方のアレンジCDが頒布された際、ライナーノーツ(楽曲の解説)に「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」というメッセージが記載された。これに対する批判が起こったという騒動が東方紫香花事件(3)である。詳しい騒動の経緯は個別の記事に譲るが、「東方二次創作の活動をしている者が、東方原作を軽んじた」とみなされる言動が、批判の対象になったものと思われる。二次創作による同人活動では、人気コンテンツの知名度を利用して利益を上げ、稼げるジャンルを転々とする拝金主義的な活動者がみられる。これらの活動者は同人ゴロあるいは同人イナゴという蔑称で呼ばれ、時折批判の対象となる。紫香花事件の当事者が批判されたのは同人ゴロが批判されたのと似た理由で、「同人は好きなコンテンツを共有し、好きな気持ちを認め合う場所である」と考える人々の理想に一致しなかったからであろう。この理想は真っ当な考え方に思えるが、冷静に考えれば、少なくとも東方に関しては「東方ファンはこうあるべし」という規則も戒律もないため、別にそのような理想に沿う義務は無い。中身を全く知らない作品の音楽でも、その作品のファンが喜ぶのでアレンジするというのは(原作者が許せば)別に構わないだろう。作品を好きである気持ちや知識、ゲームの腕前がファンであることの資格を担保するわけではない。

こんにちに至るまで、依然として「東方ファンならばかくあるべき」と考える人々と、その理想に沿わない人々という構図は存在する。東方について度々話題になるのは、「東方ファンならば原作に触れるべき」という理想を持つ人々と「東方ファンだけど原作に触れたことない・できない」人々との対立構造である。さらに先鋭化して「東方ファンなら原作STGをクリアするべき」vs「原作STGをクリアできない・持っていない」という構造に至る場合もある。実際そのように対立する人々が面と向かって話しあったり議論したりする機会は少ないが、お互いにそういう相手集団がいるという前提のもと虚空に意見を投げ合っているような有様が見受けられる。以下では上記の対立構造を「原作履修問題」と名付け、なぜそのような対立構造が生じるのか考察する。考察に先立ち、オタキング(岡田斗司夫氏)が提唱したオタク分類について触れ、オタクコンテンツのファンがどのような特性を持った集団に分かれるのかを知っておきたい。


3.岡田斗司夫氏によるオタク衰退論「オタク・イズ・デッド」でのオタク分類

 2006年にオタクの王、オタキングが行った講演「オタク・イズ・デッド」(4)の中で、オタキングは自身のSFオタクとしての経験をふまえ、オタクを複数の世代に分類した。最初はオタク原人であるが、SF自体生まれてまもなく、オタクの特徴が定まっていない時期の者である。本格的なオタク第1世代は、優れたSFが生まれくる時間をリアルに経験しながら、SFという素晴らしいものを広めるために、「SFのために」なにかをしたいという意識を持つ者である。彼らは貴族主義的な気質(ノブレス・オブリージュ)を持っており、「オタクは生まれながらに偉いので、SFのために活動するのは当然である」「SFを理解してオタクをやるには忍耐・修練が必要だが、自分はオタクたる貴族であるのでこれに耐えねばならない」というふうに考えたという。第1世代はこの自律的・自省的な学習、努力によって「SFファンとはこういうものだ」という共通認識を維持し、SFファンならば相互に理解可能である状態を獲得したのである。SFを知らない人に対しては、「そもそも人間として生まれが違うからわからなくて当然」「わからなくて良いよ」という姿勢で突き放したので、当然一般社会から受け入れられることもなかった。この後に生まれたのがオタク第2世代で、既にSFの大作が出揃った状態でSFオタクになった者である。サブカルコンテンツへの世間の風当たりが強い時期を過ごした人々であり、彼らは自分の趣味を守るために戦う必要が有った。彼らはエリート主義的な気質を持ち、「SFは努力すれば理解できる」「自分たちは努力してSFを理解したので、偉い」という叩き上げ・実力主義がモットーである。SFを知らない人に対しては「お前も勉強すればSFが判る、教えてやるから努力してSFをわかれ」「SFファンは一般社会でこういう立ち位置(=居場所)があり、存在意義がある」という姿勢で接し、「SFファンとはこういうものだ」という認識を啓蒙するとともに「お前もSFファンになって、SFファンをわかれ」と相互理解を求めた。第2世代の後あたりにスター・ウォーズ等の優れた映像作品が登場し、SFが英文を含めた難解な文章を読解して読み込むものから、映像でパっと理解するものに変化した。そして後者のような楽で理解しやすいSFを求めて新しいSFファンが多数コミュニティに流入してきたのである。その結果としてコミュニティ内の「SFファンとはこうだ」という共通認識やファン同士の相互理解が維持できなくなり、SFファンという概念が空中分解してなくなり、ついにはSFジャンル自体がほぼ無くなってしまったのである。なおこの後に登場するオタク第3世代は、「オタクであること」が趣味の問題から自分自身のアイデンティティに関する問題になっている。「オタクとは何か」の一般的な定義が存在すると自分自身の特性と乖離して齟齬を起こすので、オタクは定義されない、つまりオタクは存在しない(オタク・イズ・デッド)状態になった。そんな状態であれば当然オタク同士の相互理解などできるはずもなく、定義が無くなった後の元オタク達は「〇〇のファン」「▽▽のファン」と別れて散り散りとなり、現在に至っている。あれこれと理屈でもって「オタクとはこうだ」と示してくれたオタクの貴族やエリートたちはいなくなったので、自分で何を好きになって、何をしていくか決めないといけない。皆が皆、独りぼっちになってしまった…という話である。(なお、この話には続きがある) 上記の内容はかなり省略して講演内容を引用しているものであり、実際のオタク分類や関連する議論については、ぜひYouTubeの動画本編を視聴していただきたい。


4.原作履修問題とオタク分類の関係

 原作履修問題とこのオタク分類がどのように関連するのか。重要なのはオタク達が持つ「オタクとはこうだ」という共通認識の確立と、それに基づき「オタクは相互に理解しあえる」という理想がコミュニティの形成・維持に貢献したという一連の流れである。この流れを逆にたどると、とあるコンテンツのファンコミュニティを維持したいと考える者は「ファン同士で理解しあいたい」と思うようになり、その理解の基礎を築くため「ファンとはこうだ」という認識を作ろうとする、という風に考えることができる。そのように行動するファンの中に、オタク第1世代的な貴族主義(ファンの中だけで相互に理解すればよいと考える)やオタク第2世代的なエリート主義(誰しも努力すればファンになれる、相互理解しあえると考える)を持つ者が居るのではないだろうか。貴族主義の人々は素人(平民)に努力を求めないので争いは起こらない。しかしエリート主義の人々は、言って聞かせて努力させれば誰でもファンになれると考えているので、そう思わない素人との諍いが起こる。これが原作履修問題の本質なのではないか。

 ただ忘れてはならないのが、東方の特徴である。東方には単独のコンテンツとしては非常に多くの、かつ広い入口がある。また二次創作が一次創作を大幅に上回る量で拡散し、一部は独立して存在している。ごく初期を除いて、東方は拡散した状態で存在するのであり、言うならば元より「オタク・イズ・デッド」の状態にあるのである。東方ファンとはこうだという共通認識も、東方ファン同士の相互理解も初めから存在しない。別に東方のアレンジCDを出しつつ東方をコケにしていても東方ファンとして矛盾は無いし、東方を愛してやまずZUNを崇拝するに至っていてもまた同様である。そんな中で原作履修問題が発生するのは、「東方ファンなら××するべき」という共通認識と「東方ファンならば分かりあえる」という相互理解が存在すると誤認する人々が居るからであろう。原作履修問題の面白いところは、存在しない幻想を追いかけて発生する幻のような虚しさにある。これが1年に数回、定期的に発生するのもまた興味深い。定期的に何人かが感染する、流行り病のようなものなのだろうか。筆者も時折この病にかかるが、時間とともに過ぎ去っていくことが多い。

まとめると、原作履修問題の原因はオタク分類に関連する特徴を持っているが、東方の性質上そのような問題は発生しえないのであり、論理的に解決できないものである。原作履修問題は、問題があると考える人々の内面にのみ存在し伝播する、さながらSCPの認識災害のようなものであるが、おそらく時間が解決するので構わず放っておくのが良いだろう。


5.東方ファンはどう在るべきか

 東方好きなら〇〇しろよ、と言われて気分を害した人は、上記の通り流行り病にかかった人が放浪しているだけなので、許してあげてほしい。そこで問題を認識して議論を始めると、あなたまで同じ状態になってしまうだろう。一方東方ファンを自認する人は、自分が流行り病にかかっていないか、時折セルフ・チェックをして確認すると良いかもしれない。それはそうとして、東方ファンは互いに判りあえません、ファンたるもの何かという決まりもないですから各自勝手にやってください、というのでは余りに空しく悲しい。何とかしたいものである。

 筆者は以前から原作に限って東方に触れてきた人間で、上記の分類ではオタク第1世代に近い考えを持っていた。自分は最初から妖精大戦争が好きで、腕前に関係なく好きであった。自分は妖精大戦争のファンとして、妖精大戦争を広める活動をしなければならない。そのために時間や金銭をかけるのは当たり前である。妖精大戦争を好きでない人は、好きでないから悪いというものではなく、あらかじめそうであるから仕方ない。無理に理解させることはない… この考えに基づくと、ファンコミュニティはより閉鎖的に縮小するだろう。しかしオタク第2世代的に、「東方は△△が良くて、××が優れているのだから、お前は原作を買うべきである。ゲームをプレイし書籍を読め、◇◇に関して考察しろ、〇〇をクリアしろ、努力してゲームの腕を上達させろ、そうすれば東方ファンになれるぞ…」と方々に迫っては、これまたコミュニティを発展させることはできないだろう。

 オタク・イズ・デッドの状態において元オタク達はどう生きれば良いか、オタキングは講演の後半で言及している。「実はオタク自身が死んだのではなく、オタクの貴族主義やエリート主義、またオタクは一緒だという共通幻想が死んだのである。何かが好きな人たちが、集まっているだけになった。しかしオタクの共通認識が存在しない以上、オタクだから××が好きな気持ちはわかりあえるという状態ではない。オタクの王やエリートによる、好きであることの主張や正当化という後ろ盾も無い。何かを好きな気持ちは、自分にしかわからない。自分しかわからない好きだという気持ちを大事にして、それが好きかわからない誰かに、その気持ちを理解してもらえるように伝える。他者を信じて、自分の言葉を伝えていく。その小さな個々の戦いが、今後は続いていくだろう。」

 東方ファンだからといって、東方が好きかはわからない。しかしこの文章を読んでいるあなたに、あなたを信じて、わたしが東方を好きであることを伝える。わかってもらえるように、一緒に東方を好きになってもらえるように、頑張っていく。もしあなたも東方を好きになったら、誰かに伝えてくれると嬉しく思う。わたしは自分ができる方法で、好きな気持ちを伝えていこう。多くの人に正しく気持ちが伝わるような、優れた表現はできないかもしれない。それでもどこかに居るであろう、好きな気持ちを分かってくれる人を探しつづけよう。


「作品中の創作部分に限り欠点は存在し得ない。それは欠点ではなく、特徴である」(5)



(1)東方project25年記念サイト https://touhou-x.jp/

(2)ギネスワールドレコード ゲーマーズエディションwebアーカイブ https://web.archive.org/web/20120202074715/http://www.guinnessworldrecords.com/records-8000/most-prolific-fan-made-shooter-series

(3)ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/id/765568

(4)オタク・イズ・デッド 岡田斗司夫クロニクル2006/5/24 https://youtu.be/xJcxKtBmrFw

(5)東方書譜 webアーカイブ 2004年02月24日「さてさて」 http://web.archive.org/web/20040404035933/www16.big.or.jp/~zun/cgi-bin/diary/nicky.cgi

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